2010 年 9 月 23 日
Posted by 田村圭介 /昭和女子大学環境デザイン学科准教授
5.渋谷駅はどのように生まれ変わったか。
増え続ける東京の人口にともない、渋谷駅利用者の数も留まるところを知らない。地上の空間は所狭しと飽和状態になった。残された空き空間は、地中となる。これまで日々増殖する姿を演じた渋谷駅は、その後、外見の変化を見せず穏やかとなる。しかし、地下において大きく渋谷駅は変わっていった。
■空き空間を求めて―地下へ
利用者の増加で渋谷駅は否応なく輸送手段を変更せざるを得ない。あるいは既存の路線に平行する形で路線を増設する策を取る。
西へ発展していく郊外住宅街という後背地を背負った路面電車ではらちがあかない。玉電は1969年に廃線し、1977年東急新玉川線(現田園都市線)の地下鉄として再整備される。銀座線もパンク状態で、1978年に第二の銀座線である半蔵門線が通る。渋谷駅から半蔵門線がしばらく銀座線と平行して走るのはそのためである。また、新玉川線と半蔵門線は相互直通(相互乗り入れ)運転をする。
最初の渋谷停車場があった場所は貨物の積み下ろしの場として利用されたが、産業構造の変化で貨物利用は終え、その後はしばらく住宅展示場であった。山手線緩和のため渋谷駅から少々南に離れているが1996年埼京線・湘南新宿ラインのプラットフォームができる。
山手線、埼京線に対する混雑緩和に寄与するため2008年東京地下鉄の副都心線が乗り入れる。東京では最後の地下鉄と言われている。渋谷駅東口の地下の新「渋谷駅」には、建築家安藤忠雄が設計した「地宙船」をイメージしたユニークな吹き抜け空間が出来た。
■点から面へ―シブヤ・クロッシング
オリンピック後から、東急と西武を中心に若者をターゲットとしたファッションビジネスが激しさを増し、“ファッション・若者の街”の渋谷イメージを確立する。魅力的な商業ビル(点)が、通り(線)を生み、街(面)になる戦略的手法を取った。情報の発信が渋谷駅ビルという点であったのが、街という面に移っていった。また、それまで渋谷駅が渋谷の谷で最も大きな唯一の建物であったが、周囲の建物が高くなり渋谷駅の建物が街に埋もれていった。商業エリアと駅を結ぶ渋谷駅前交差点は、幾つもの巨大なスクリーンが渋谷駅からの人を迎え、常に人で溢れ返る世界でも有名なシブヤ・クロッシングとなった。
■空へ―超高層化
2000年に銀座線の車庫と井の頭線の駅施設、ホテルと商業施設を複合化した渋谷マークシティが完成する。他に比べて遅れての超高層化が渋谷駅で始まる。地下の空き空間まで埋め尽くされた渋谷駅は駅上空にその空き地を見つけたことになる。
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