2010 年 9 月 17 日
Posted by 田村圭介 /昭和女子大学環境デザイン学科准教授
3.渋谷駅はどのように巨大になったか-戦前
山手線外回りの渋谷駅改札口の一つに玉川改札口というのがあり、不思議に思う人は多い。玉川とは多摩川の古称で、玉川電鉄(通称、玉電)が1969年までこの改札を出てすぐの同じ階に乗り入れていたからだ。渋谷駅の巨大化はこの玉電から始まる。
■ジャリ電と市電
鉄筋コンクリートは、近代都市を造り出す土木技術の刀であった。砂利は鉄筋コンクリートの重要な構成要素であり、当初は東京近郊の河川敷の砂利を使った。多摩川河川敷もその一つだった。現在の二子玉川周辺から東京への中継点の渋谷駅まで、砂利は1907年鉄道で運ばれ始めた。これが玉電(通称ジャリ電)である。ちょうど山手線が民間の日本鉄道から国有鉄道に買収された(1906年)ころである。
東京市は市電が渋谷駅を終点とするまで西へと拡張してきた(1911年)。1920年には渋谷駅は現位置に移転し山手線は渋谷の谷では盛土をして高架線となる。二代目駅舎は、切妻屋根に時計塔を持つ洒落たスタイルであった。玉電は当初の砂利から人を運ぶようになり、1922年には山手線の盛土にトンネルを造り東京市へと人を運んだ。このトンネルは、現在でもハチ公広場と東横のれん街を繋いでいる。1923年に玉電と市電が接続した。
1923年関東大震災が起き、下町に比べて山手での崩壊が少なかったために生まれた山手信仰とともに東京市の拡張が渋谷駅を乗り越えて西へ西へと住宅街が広がっていった。この発展する公害住宅街を後背地としながら渋谷駅は巨大化していった。
■ホワイトボックス
1925年山手線がやっと環状運転を開始した2年後の1927年、都市プロデューサー五島慶太は渋谷駅に現在の東横線を乗り込ませた。さらに関西の小林一三に学んだ手法で、1934年、地上7階、地下1階、鉄筋コンクリート造のターミナルデパート、東横百貨店(現在の東館)を建てた。スタイルは、装飾をそぎ落とし、純粋な形態で構成し、合理性を追求した、フランス近代建築家ル・コルビジェが確立した当時最先端のモダニズム様式、ホワイトボックスであった。起用した建築家は、銀座和光ビルや日比谷の第一生命ビルを手がけた渡辺仁である。そのホワイトボックスは、渋谷川を跨ぐようにして建ったので当時話題になったが、それは山手の記念碑のように人々の目に映ったであろう。そこには劇場から、デパートの品々から、屋上遊園地まであり、華やかな近代生活が花開いていた。
さらに五島慶太は、1934年現在の銀座線を東横百貨店の3階レベルへと引っ張ってきた。渋谷駅は谷底にあるために青山では地下を走るが、渋谷駅では地下鉄であるはずの銀座線が空中を走ることになる。さらに、車庫を渋谷駅の西側に設置したため、渋谷の谷を高架で横断する形となった。これは、現在でも変わらない姿だ。
同じ年に、地方から東京に職を求めて増えていたサラリーマンの心の支えとなったハチ公像も建立されている。
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