2011 年 2 月 5 日
Posted by Google プレイス 渋谷キャンペーン事務局 Negoro
久しぶりのポストになってしまい、恐縮です。おかげさまで、Google プレイス 渋谷キャンペーンは大いに盛り上がり、今日においても、参加いただいたお店の方や、キャンペーンを通してお世話になった方と深く交流させていただくようになり、あらためて、渋谷の街の魅力を感じています。
Google プレイスの渋谷キャンペーンを進めるにあたっては、「shibuya 1000」さんに多大なるご協力をいただきました。その「shibuya 1000」さんのイベントがいよいよ本日 2 月 5 日より開催されます。今年で 3 年目となるイベントで、渋谷駅の地下コンコースなどで、 多数のクリエイターがそれぞれの視点で見た渋谷の魅力をアート作品でお披露目しています。
「shibuya1000 -アーバン・エキスポ 2011-」
開催プログラムはこちら
コンテンツマップ(PDF) はこちら
我々のキャンペーンを成功に導いてくださった「shibuya 1000」さんには、感謝の気持ちでいっぱいです。特に、個人的にも親しくしていただいた、辻香さんには、一言では言い表せない感謝の気持ちでいっぱいです。そして、心より、ご冥福をお祈りします。このブログに辻さんが力をいれて研究されていた「渋谷バブル建築の変遷」を4回に渡って投稿いただけたことを改めて感謝したいと思います。
ぜひ、期間中渋谷をご利用の際には、「shibuya 1000」のイベントにお立ち寄りください。
2011年2月5日土曜日
2010年9月29日水曜日
渋谷バブル建築の変遷 [4/4]
2010 年 9 月 29 日
Posted by 辻香 /東京大学生産技術研究所村松研究室協力研究員
シブヤバブル文化史跡-宴の痕
都市が成熟を続けると、街は頻繁に更新されます。
そこには記憶も痕跡も何も残らないのかしら?などと思いながら思いにふけってみた。
都市の成熟期とりわけバブル期の80年代に焦点をあてて、まずは自分の記憶を元にひとつひとつ見つめてみたい。
◆ シブヤバブルディスコ文化史跡
バブル時代のスクランブル交差点の原風景は「DISCO Big Apple DISCO」のネオンが輝く峰岸ビルだった。(NOVAの看板の上にそのネオンはあったが、残念ながらその写真は無く、峰岸ビルの姿はこうだった)このビル内 8 階には「DISCO Big Apple」と渋谷宝塚劇場が入っていた。1999年にはQ-FRONTビルとなり、スクランブル交差点から見上げる風景は変わりました。2000年にはTSUTAYAが入り、ディスコのイメージであった渋谷から「映画/音楽文化渋谷」へと変化したのです。
「LA・SCALA」は、渋谷ジョイパックビル 3 階に入っていたディスコで、1992年ヒューマックスパビリオン(若林広幸)として姿を変えた。つまり、ディスコイメージだったその場所は、1 階にディズニーが入ったことで突如ワンダーランドへと変化した。
日本初のデザイナーズマンションと言われる「ビラシリーズ」にも、実はディスコが入っていたのをご存知ですか? 1964年、ライフスタイルの変化に敏感だったディベロッパーがその最初のプロジェクトとしてビラ・ビアンカを作りました。マンション自身の設計は堀田英二による。その建物に入っていたディスコがCLUB D。
◆ シブヤバブルアミューズメント文化史跡
「シブヤバブ建」と言えば大抵の人が思い浮かぶのが、警視庁渋谷警察署宇田川派出所(鈴木エドワード)。その周辺から円山町にかけてはみなさんご存知の通り「遊び場」が多い。Dr.ジーカンス、BEAM(ワークショップ)が建ってから90年後半まで、ディスコに変わるアミューズメントは何かとみんなが模索していた痕跡が伺えます。常に施設の使われ方が時代に合わせて変わることから、シブヤの脈々と流れる文化史を読み取ることが出来るのです。BEAMは、竣工当時から物販/飲食/イベントスペースとして活躍していますが、今は「ヨシモト∞ホール」となって渋谷に「お笑い」が入ってきました。
より大きな地図で シブヤバブル文化史跡 を表示
みなさん!なんとなく出入りしている建築には、実に深いその街の歴史が刻み込まれています。
このblogやGOOGLE MAPを見て、是非是非「プレイス」パワーをご覧くださいな。
2011 年 2 月 5 日(土)〜 13 日(日)。私たちshibuya1000は、渋谷駅地下コンコース(主に新駅側)を中心に「都市を展示しちゃおう!」をモットーに展覧会ほかイベントなどを開催予定です!
日々blogやツイッターで渋谷のお祭りや私たちの行動がアップされているので、たまに訪れてみて下さいね。
僭越ながらshibuya1000メンバーを代表して、Google 根来様に、この様な機会をいただけましたこと、ここに感謝申し上げます。そしてフルサポートしてくださったワイデン+ケネディの石畠さん、村田さん。本当にありがとうございました!
Posted by 辻香 /東京大学生産技術研究所村松研究室協力研究員
シブヤバブル文化史跡-宴の痕
都市が成熟を続けると、街は頻繁に更新されます。
そこには記憶も痕跡も何も残らないのかしら?などと思いながら思いにふけってみた。
都市の成熟期とりわけバブル期の80年代に焦点をあてて、まずは自分の記憶を元にひとつひとつ見つめてみたい。
◆ シブヤバブルディスコ文化史跡
バブル時代のスクランブル交差点の原風景は「DISCO Big Apple DISCO」のネオンが輝く峰岸ビルだった。(NOVAの看板の上にそのネオンはあったが、残念ながらその写真は無く、峰岸ビルの姿はこうだった)このビル内 8 階には「DISCO Big Apple」と渋谷宝塚劇場が入っていた。1999年にはQ-FRONTビルとなり、スクランブル交差点から見上げる風景は変わりました。2000年にはTSUTAYAが入り、ディスコのイメージであった渋谷から「映画/音楽文化渋谷」へと変化したのです。
「LA・SCALA」は、渋谷ジョイパックビル 3 階に入っていたディスコで、1992年ヒューマックスパビリオン(若林広幸)として姿を変えた。つまり、ディスコイメージだったその場所は、1 階にディズニーが入ったことで突如ワンダーランドへと変化した。
日本初のデザイナーズマンションと言われる「ビラシリーズ」にも、実はディスコが入っていたのをご存知ですか? 1964年、ライフスタイルの変化に敏感だったディベロッパーがその最初のプロジェクトとしてビラ・ビアンカを作りました。マンション自身の設計は堀田英二による。その建物に入っていたディスコがCLUB D。
◆ シブヤバブルアミューズメント文化史跡
「シブヤバブ建」と言えば大抵の人が思い浮かぶのが、警視庁渋谷警察署宇田川派出所(鈴木エドワード)。その周辺から円山町にかけてはみなさんご存知の通り「遊び場」が多い。Dr.ジーカンス、BEAM(ワークショップ)が建ってから90年後半まで、ディスコに変わるアミューズメントは何かとみんなが模索していた痕跡が伺えます。常に施設の使われ方が時代に合わせて変わることから、シブヤの脈々と流れる文化史を読み取ることが出来るのです。BEAMは、竣工当時から物販/飲食/イベントスペースとして活躍していますが、今は「ヨシモト∞ホール」となって渋谷に「お笑い」が入ってきました。
より大きな地図で シブヤバブル文化史跡 を表示
みなさん!なんとなく出入りしている建築には、実に深いその街の歴史が刻み込まれています。
このblogやGOOGLE MAPを見て、是非是非「プレイス」パワーをご覧くださいな。
2011 年 2 月 5 日(土)〜 13 日(日)。私たちshibuya1000は、渋谷駅地下コンコース(主に新駅側)を中心に「都市を展示しちゃおう!」をモットーに展覧会ほかイベントなどを開催予定です!
日々blogやツイッターで渋谷のお祭りや私たちの行動がアップされているので、たまに訪れてみて下さいね。
僭越ながらshibuya1000メンバーを代表して、Google 根来様に、この様な機会をいただけましたこと、ここに感謝申し上げます。そしてフルサポートしてくださったワイデン+ケネディの石畠さん、村田さん。本当にありがとうございました!
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渋谷 渋谷バブル建築の変遷 辻香
2010年9月28日火曜日
渋谷バブル建築の変遷 [3/4]
2010 年 9 月 28 日
Posted by 辻香 /東京大学生産技術研究所村松研究室協力研究員
「ビババブル!」って言うと、必ず40代は微笑み意気投合。けれども一般論では「最悪の時代」「当時のツケが今回っている」と、まぁ、それはそれはあまりいい印象の時代ではありません。
が!渋谷を舞台にちょっと「バブル」もそうそう悪くは無いよというお話を書いてみます。
◆ 街イメージ形成に役立った「バブ建」たち
紺色のピンはバブル期に竣工したもの。それをよーく見てみると、ショッピング、デートの目的地にはわんさか「バブ建」があります。スペイン坂周辺、代官山、外苑前などなど。構想がバブル期のものを入れるとピンクピン、水色ピンも入り「表参道」もその一つと言えます。つまり、バブル期は「最低」「最悪」と言われていますが、現在の渋谷区街イメージ形成に大きく貢献していることが分かります。
より大きな地図で 渋谷バブル建築の変遷 を表示
◆ 「バブ建」特徴
一部は例外だけれども、往々にして区境にその子達はいます。
つまり1985年以降、他区との文化混在が始まり「バブ建」達によって「シブヤ」「表参道」「代官山」「恵比寿」のエリアイメージが形成されたとも言えます。
所謂「若者の街。渋谷」は、スペイン坂を中心に、港区との境目には「外苑ブランド」。目黒区との境目には「代官山ブランド」と「恵比寿ブランド」が街イメージ構成に「バブ建」が貢献しています。ちょっと変わり種で行くと、ブランド化に失敗?してしまった「コスモス通り」があります。
◆ 「ビバ渋谷バブ建!」
港区との境目外苑西通りでは、外国人建築家によるワタリウム(マリオ・ボッタ)、隣にサッフォー(北川原温)その先に青山TERRAZZA(竹山聖+アモルフ)が姿を見せ、反対側には寛斎ビル(現堀内カラー)(竹山聖+アモルフ、アトリエミカ)少し離れるとS-LATTICE(ワークショップ)達が「外苑」ブランドを作っています。
目黒区との境目には、代官山ヒルサイドテラスが着々と30年の月日をかけ「代官山」ブランドを確立している。もう一つは、恵比寿ガーデンプレイス(久米設計)。ビール工場跡地に建ったこの施設は、白金へとつながるセレブリティの街というイメージを作っています。
青線 :渋谷区境界
より大きな地図で 街イメージ形成に役立った「バブ建」たち を表示
◆ 「おしい!渋谷バブ建。。。」
ビバ!を連発していてももちろん「おしい(多少贔屓目)」事例も正直ある。。。
それは通称「コスモス通り」。渋谷区、世田谷区、目黒区と3区に股がっているこの道では、若手ディベロッパーの手により、「コスモス通り」と新しく名付けられ、ファッションブランドオフィスを誘致したエリア開発をしようとしました。この時代の後半はバブルの終焉であり、この開発は途中で終わってしまいます。が!当時の建築達は現在も活用されています。アーステクチャーサブ1(高松伸)がその第一号。3区をまたがって5件以上の当時の建築を見ることができるので、是非散歩してみて下さいな。
オレンジ線:コスモス通り
より大きな地図で コスモス通り を表示
◆ 「ん?これも渋谷バブ建?」
1968年から建替えが検討され、1998年に設計者決定という流れから、バブ建と言えるかどうかは微妙だけれども、ここ数年では表参道ヒルズが港区の境目で登場。表参道同潤会アパートがつくり出してきたレトロな表参道ブランドは、2002年にLOUIS VUITTON(青木淳)、2003年にDior 表参道(妹島和世+西沢立衛/SANAA)が建ち上がり、2006年の表参道ヒルズ(安藤忠雄)で新たなブランドイメージを生み出しています。
より大きな地図で 表参道エリア 街イメージ形成に役立った「バブ建」たち を表示
このブログが少しは、バブルへのイメージが良くなることをお祈りします。
次回は、「シブヤバブル文化史跡-宴の痕」と題して「シブヤ遺産」(村松伸+東京大学村松研究室 バジリコ出版)内から抜粋して最後を飾ろうと思います!
Posted by 辻香 /東京大学生産技術研究所村松研究室協力研究員
「ビババブル!」って言うと、必ず40代は微笑み意気投合。けれども一般論では「最悪の時代」「当時のツケが今回っている」と、まぁ、それはそれはあまりいい印象の時代ではありません。
が!渋谷を舞台にちょっと「バブル」もそうそう悪くは無いよというお話を書いてみます。
◆ 街イメージ形成に役立った「バブ建」たち
紺色のピンはバブル期に竣工したもの。それをよーく見てみると、ショッピング、デートの目的地にはわんさか「バブ建」があります。スペイン坂周辺、代官山、外苑前などなど。構想がバブル期のものを入れるとピンクピン、水色ピンも入り「表参道」もその一つと言えます。つまり、バブル期は「最低」「最悪」と言われていますが、現在の渋谷区街イメージ形成に大きく貢献していることが分かります。
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◆ 「バブ建」特徴
一部は例外だけれども、往々にして区境にその子達はいます。
つまり1985年以降、他区との文化混在が始まり「バブ建」達によって「シブヤ」「表参道」「代官山」「恵比寿」のエリアイメージが形成されたとも言えます。
所謂「若者の街。渋谷」は、スペイン坂を中心に、港区との境目には「外苑ブランド」。目黒区との境目には「代官山ブランド」と「恵比寿ブランド」が街イメージ構成に「バブ建」が貢献しています。ちょっと変わり種で行くと、ブランド化に失敗?してしまった「コスモス通り」があります。
◆ 「ビバ渋谷バブ建!」
港区との境目外苑西通りでは、外国人建築家によるワタリウム(マリオ・ボッタ)、隣にサッフォー(北川原温)その先に青山TERRAZZA(竹山聖+アモルフ)が姿を見せ、反対側には寛斎ビル(現堀内カラー)(竹山聖+アモルフ、アトリエミカ)少し離れるとS-LATTICE(ワークショップ)達が「外苑」ブランドを作っています。
目黒区との境目には、代官山ヒルサイドテラスが着々と30年の月日をかけ「代官山」ブランドを確立している。もう一つは、恵比寿ガーデンプレイス(久米設計)。ビール工場跡地に建ったこの施設は、白金へとつながるセレブリティの街というイメージを作っています。
青線 :渋谷区境界
より大きな地図で 街イメージ形成に役立った「バブ建」たち を表示
◆ 「おしい!渋谷バブ建。。。」
ビバ!を連発していてももちろん「おしい(多少贔屓目)」事例も正直ある。。。
それは通称「コスモス通り」。渋谷区、世田谷区、目黒区と3区に股がっているこの道では、若手ディベロッパーの手により、「コスモス通り」と新しく名付けられ、ファッションブランドオフィスを誘致したエリア開発をしようとしました。この時代の後半はバブルの終焉であり、この開発は途中で終わってしまいます。が!当時の建築達は現在も活用されています。アーステクチャーサブ1(高松伸)がその第一号。3区をまたがって5件以上の当時の建築を見ることができるので、是非散歩してみて下さいな。
オレンジ線:コスモス通り
より大きな地図で コスモス通り を表示
◆ 「ん?これも渋谷バブ建?」
1968年から建替えが検討され、1998年に設計者決定という流れから、バブ建と言えるかどうかは微妙だけれども、ここ数年では表参道ヒルズが港区の境目で登場。表参道同潤会アパートがつくり出してきたレトロな表参道ブランドは、2002年にLOUIS VUITTON(青木淳)、2003年にDior 表参道(妹島和世+西沢立衛/SANAA)が建ち上がり、2006年の表参道ヒルズ(安藤忠雄)で新たなブランドイメージを生み出しています。
より大きな地図で 表参道エリア 街イメージ形成に役立った「バブ建」たち を表示
このブログが少しは、バブルへのイメージが良くなることをお祈りします。
次回は、「シブヤバブル文化史跡-宴の痕」と題して「シブヤ遺産」(村松伸+東京大学村松研究室 バジリコ出版)内から抜粋して最後を飾ろうと思います!
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渋谷 渋谷バブル建築の変遷 辻香
2010年9月27日月曜日
Googleプレイスに期待すること。 植村写真スタジオ 館長 植村さんに伺いました。
2010 年 9 月 27 日
Posted by Google プレイス 渋谷キャンペーン事務局 Hisaya
本日は、今回のキャンペーンにご協力いただいている、植村写真スタジオ 館長の植村栄一様に Google プレイスについてお話いただきました。
戦後から渋谷の今の場所にかまえる歴史ある写真スタジオで、当時は屋上から原宿駅が見えたとのエピソードも残っているそうです。
それでは、ぜひビデオを御覧ください。
Posted by Google プレイス 渋谷キャンペーン事務局 Hisaya
本日は、今回のキャンペーンにご協力いただいている、植村写真スタジオ 館長の植村栄一様に Google プレイスについてお話いただきました。
戦後から渋谷の今の場所にかまえる歴史ある写真スタジオで、当時は屋上から原宿駅が見えたとのエピソードも残っているそうです。
それでは、ぜひビデオを御覧ください。
2010年9月26日日曜日
Googleプレイスに期待すること。
ネイルサロン アプレ ラ プリュイ渋谷店 店長 大崎さんに伺いました。
2010 年 9 月 26 日
Posted by Google プレイス 渋谷キャンペーン事務局 Hisaya
本日は、今回のキャンペーンにご協力いただいている、ネイルサロン アプレ ラ プリュイ渋谷店 店長の大崎美由紀様に Google プレイスについてお話いただきました。
店長になって3ヶ月のフレッシュな大崎様。フレッシュで素敵な笑顔にあふれてます。
それでは、ぜひビデオを御覧ください。
Posted by Google プレイス 渋谷キャンペーン事務局 Hisaya
本日は、今回のキャンペーンにご協力いただいている、ネイルサロン アプレ ラ プリュイ渋谷店 店長の大崎美由紀様に Google プレイスについてお話いただきました。
店長になって3ヶ月のフレッシュな大崎様。フレッシュで素敵な笑顔にあふれてます。
それでは、ぜひビデオを御覧ください。
2010年9月25日土曜日
発見!消失! 渋谷駅周辺のパブリックアート【2/2】
2010 年 9 月 25 日
Posted by 松本紋 /アートコーディネーター
後編【消失編】
今回は渋谷の喧騒にいつの間にか消えて行ってしまったパブリックアート作品についてです。
皆さんご存知、渋谷QFRONT。渋谷駅から出て、スクランブル交差点をわたった所にある、ビックスクリーンが目印の渋谷駅周辺のシンボル的ビルの一つです。
1999年にできたこのビルの「Q’s Wall-C」と呼ばれるセンター街側のスクリーンに、かつて世界的に著名なアメリカ人現代アーティスト、ジョナサン・ボロフスキー氏の作品が3年ほど展示されていた事をご存知でしょうか。ボロフスキー氏の作品とは人の形をした巨大な彫刻作品が特徴的であり、彼の作品は世界中で見る事ができます。例えば北京のオリンピック公園やトロントのピアソン国際空港などです。日本では、東京オペラシティー内、B1Fのサンクンガーデンにそびえ立つ彫刻「Singing Man」が有名ではないでしょうか。
「Heartlight Man」というその作品は、高さが41m、横幅 11.6mの人の形をした平面作品で、アーティストの心臓の鼓動を録音し、その鼓動の音とそれにあわせ全身の光が点滅するというものでした。
しかし、当時学校帰りに毎日QFRONT前を通り過ぎていたにもかかわらず、私にはこの作品の記憶がありません。中学生だった私にとっては、日本に上陸したばかりであったQFRONT内のスターバックスのコーヒーと友達とのおしゃべりの方が重要だったようです。
さて、この作品の事を人伝てに聞き、なくなってしまった理由を調べてみると、ビルの竣工にあわせて1999年よりQ’s Wall-Cでアート作品を継続的に展示して行く企画、「コンテンポラリー・アート・ショーケース」のスタートを飾る作品として、1999年より継続的に展示替えをされる事を前提に発表された作品であるとの事が判明。企画の2回目以降が実現されなかった理由は判明しませんでしたが、継続的に文化活動を続けて行く事の難しさをぼんやりと実感。。。
ちなみに、今のQ’s Wall-Cには広告が展示してあります。ボロフスキー氏の作品が撤去された2002年以降はQ’s Wall-Cは屋外広告の媒体として利用されているとの事です。
ボロフスキー氏は「Heartlight Man」作品についての自身のコメントで、「渋谷エリアの喧騒は、作品の一部である私の心臓の鼓動をかき消してしまう。」とコメントをされていました。巨大なアート作品ですら、かき消してしまう渋谷の喧騒。それもこの企画がなくなってしまった理由の一つかもしれません。
設置される"場所(プレイス)"と共存する事を目的として創られる、パブリックアート。次回渋谷に行かれる際には、街の喧騒と共存する作品達を探してみるのはいかがですか?
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Posted by 松本紋 /アートコーディネーター
後編【消失編】
今回は渋谷の喧騒にいつの間にか消えて行ってしまったパブリックアート作品についてです。
皆さんご存知、渋谷QFRONT。渋谷駅から出て、スクランブル交差点をわたった所にある、ビックスクリーンが目印の渋谷駅周辺のシンボル的ビルの一つです。
1999年にできたこのビルの「Q’s Wall-C」と呼ばれるセンター街側のスクリーンに、かつて世界的に著名なアメリカ人現代アーティスト、ジョナサン・ボロフスキー氏の作品が3年ほど展示されていた事をご存知でしょうか。ボロフスキー氏の作品とは人の形をした巨大な彫刻作品が特徴的であり、彼の作品は世界中で見る事ができます。例えば北京のオリンピック公園やトロントのピアソン国際空港などです。日本では、東京オペラシティー内、B1Fのサンクンガーデンにそびえ立つ彫刻「Singing Man」が有名ではないでしょうか。
「Heartlight Man」というその作品は、高さが41m、横幅 11.6mの人の形をした平面作品で、アーティストの心臓の鼓動を録音し、その鼓動の音とそれにあわせ全身の光が点滅するというものでした。
しかし、当時学校帰りに毎日QFRONT前を通り過ぎていたにもかかわらず、私にはこの作品の記憶がありません。中学生だった私にとっては、日本に上陸したばかりであったQFRONT内のスターバックスのコーヒーと友達とのおしゃべりの方が重要だったようです。
さて、この作品の事を人伝てに聞き、なくなってしまった理由を調べてみると、ビルの竣工にあわせて1999年よりQ’s Wall-Cでアート作品を継続的に展示して行く企画、「コンテンポラリー・アート・ショーケース」のスタートを飾る作品として、1999年より継続的に展示替えをされる事を前提に発表された作品であるとの事が判明。企画の2回目以降が実現されなかった理由は判明しませんでしたが、継続的に文化活動を続けて行く事の難しさをぼんやりと実感。。。
ちなみに、今のQ’s Wall-Cには広告が展示してあります。ボロフスキー氏の作品が撤去された2002年以降はQ’s Wall-Cは屋外広告の媒体として利用されているとの事です。
ボロフスキー氏は「Heartlight Man」作品についての自身のコメントで、「渋谷エリアの喧騒は、作品の一部である私の心臓の鼓動をかき消してしまう。」とコメントをされていました。巨大なアート作品ですら、かき消してしまう渋谷の喧騒。それもこの企画がなくなってしまった理由の一つかもしれません。
設置される"場所(プレイス)"と共存する事を目的として創られる、パブリックアート。次回渋谷に行かれる際には、街の喧騒と共存する作品達を探してみるのはいかがですか?
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ラベル:
渋谷 パブリックアート 松本紋
2010年9月24日金曜日
渋谷駅のうつりかわり [6/6]
2010 年 9 月 24 日
Posted by 田村圭介 /昭和女子大学環境デザイン学科准教授
6.渋谷駅はこれからどのようになるのか
東京都と渋谷区は、2008年「渋谷駅街区基盤整備方針」を発表した。そこには、渋谷駅の青図が描かれている。渋谷駅は駅上空をもとめて、他の再開発地区と同じように超高層化されていく。地面から離れた高層部分では一般的な無機質オフィス空間が広がるが、足元において渋谷駅の独自の空間は持続されていくだろう。
■2012年のシナリオ
東急文化会館跡地に現在建設進行中の超高層複合施設ヒカリエが2012年にオープンする。東急文化会館にあったプログラムを現代風にアレンジして超高層ビルの箱内で再構成したものだ。西にマークシティ、東にヒカリエが二大双塔の格好で渋谷駅を形作る。かつて渋谷のシンボルであった東急文化会館屋上プラネタリウムの銀色球体は、このたび文化総合センター大和田(2010年11月にオープン予定)の屋上に移された。
また、2012年には東横線が明治通り下へ地下化し、地宙船にて副都心線と相互直通する。
■大改造計画
2012年以降は、東急線プラットホーム跡地をどうするかが一つの焦点となりそうだ。資本の流れを生み出す源泉である超高層ビルが、東横百貨店(現東館)の解体を利用してそこに建設されるからだ。
新たな超高層ビルの足元では、現在離れて不便である埼京線・湘南新宿ラインのホームを東横線地上ホーム跡地へ持ってくる。銀座線ホームを明治通りと山手線の間に東寄りへ移設する。山手線ホーム上の改札口を全面的に広大な乗り換えコンコースへ建て替える。マンモス歩道橋は、東西広場を越えるペデストリアンデッキへ変貌する。ハチ公口・西口・東口の各広場とバスターミナルを拡大する。
渋谷駅の大改造である。
■中締め
このブログの終わりにあたって、改めて渋谷駅とは何なのだろうか。1885年の発生以来、日々鉄道が走り、人々の流れができ、渋谷駅が形成されてきた。それはサンゴ礁のようなものだ。サンゴ礁とはサンゴの生命活動の結果作られた地形のことだが、私の作業はその地層の一層一層を考察するものである。渋谷駅は、時代時代の要請や欲望を物理的に具現化し、それらが堆積してきた過程の総体である。
渋谷駅の変化のある限りこの文章には実は終わりがないので、ここでいったん中締めということになろうか。今回このブログを書くにあたって様々な方々にお世話になった。この場をお借りして感謝したい。
渋谷駅は終わりのない文章でありつづけてほしい。
より大きな地図で 渋谷駅のうつりかわり [ 6. 渋谷駅はこれからどのようになるのか] を表示
Posted by 田村圭介 /昭和女子大学環境デザイン学科准教授
6.渋谷駅はこれからどのようになるのか
東京都と渋谷区は、2008年「渋谷駅街区基盤整備方針」を発表した。そこには、渋谷駅の青図が描かれている。渋谷駅は駅上空をもとめて、他の再開発地区と同じように超高層化されていく。地面から離れた高層部分では一般的な無機質オフィス空間が広がるが、足元において渋谷駅の独自の空間は持続されていくだろう。
■2012年のシナリオ
東急文化会館跡地に現在建設進行中の超高層複合施設ヒカリエが2012年にオープンする。東急文化会館にあったプログラムを現代風にアレンジして超高層ビルの箱内で再構成したものだ。西にマークシティ、東にヒカリエが二大双塔の格好で渋谷駅を形作る。かつて渋谷のシンボルであった東急文化会館屋上プラネタリウムの銀色球体は、このたび文化総合センター大和田(2010年11月にオープン予定)の屋上に移された。
また、2012年には東横線が明治通り下へ地下化し、地宙船にて副都心線と相互直通する。
■大改造計画
2012年以降は、東急線プラットホーム跡地をどうするかが一つの焦点となりそうだ。資本の流れを生み出す源泉である超高層ビルが、東横百貨店(現東館)の解体を利用してそこに建設されるからだ。
新たな超高層ビルの足元では、現在離れて不便である埼京線・湘南新宿ラインのホームを東横線地上ホーム跡地へ持ってくる。銀座線ホームを明治通りと山手線の間に東寄りへ移設する。山手線ホーム上の改札口を全面的に広大な乗り換えコンコースへ建て替える。マンモス歩道橋は、東西広場を越えるペデストリアンデッキへ変貌する。ハチ公口・西口・東口の各広場とバスターミナルを拡大する。
渋谷駅の大改造である。
■中締め
このブログの終わりにあたって、改めて渋谷駅とは何なのだろうか。1885年の発生以来、日々鉄道が走り、人々の流れができ、渋谷駅が形成されてきた。それはサンゴ礁のようなものだ。サンゴ礁とはサンゴの生命活動の結果作られた地形のことだが、私の作業はその地層の一層一層を考察するものである。渋谷駅は、時代時代の要請や欲望を物理的に具現化し、それらが堆積してきた過程の総体である。
渋谷駅の変化のある限りこの文章には実は終わりがないので、ここでいったん中締めということになろうか。今回このブログを書くにあたって様々な方々にお世話になった。この場をお借りして感謝したい。
渋谷駅は終わりのない文章でありつづけてほしい。
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渋谷駅 渋谷駅のうつりかわり 田村圭介
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